Thursday, November 30, 2006

 

久し振りに会う親友

久し振りに会う親友

親友がやって来た、久し振りに会う親友は変わり果てた姿になっており小さなビンに詰められていた。
そうなんです、親友は病に犯され死んでしまったのです。

青春時代を一緒に過し何でも話し合い、共に楽しみ苦しんだ仲間、お互いに利害の無い青春時代の仲間と言うのは何時会っても良いものである。
お互いに30年ぐらい離れており忙しい時代を過し余り会う事が無かったのだが、心の中では子育てが終わりリタイヤした時キット又昔のように楽しい時を一緒に過せることだろうと期待を胸に抱いて生きてきた。

その願いも空しく病に倒れて死んでしまった親友の遺灰を海に撒く為に奥さんが送ってくれたのです。
人灰が税関を無事パスするのか少し心配していたのだが、無事郵便で届いた。
以前から私がもしも死んだら死体をそのまま路上に捨てるのは他人の迷惑にもなり衛生上も良くないので、焼いた上でその灰を海に撒いて欲しいと女房や知り合いに言いふらしており、その話を聞いていた親友の奥さんが主人の灰を海に撒いて欲しいと送ってくれたのである。

ニュージーランドに住んでいる私としては親友の葬式にも簡単に行けず、無作法だと思われるかも知れないが私の考えとしては儀式としての葬式などに私が参加しても親友は帰っては来ないし、お祈りして私の手で海に散骨できる事の方が私が親友にしてやれることとして有意義だと思っている。

「海に散骨すれば海は世界中に繋がっており何時でも会うことが出来る」と、以前ヨット仲間の奥さんが亡くなった時に聞いた話を実行する。
今私と女房で作っているカタマランが完成したら一緒に世界をリタイヤ旅行しようと約束した親友だが、これからは何時でも海に行けば会うことが出来る。

お墓に埋められていると会いたくなっても墓まで行かなければ会うことが出来ない。これからは又昔のように一緒に話をしたり喜び合ったり、又苦しんだりしようじゃないか。多分死んでしまった親友はもう苦しむことはないと思うが?

本人は死にたくは無かったとは思うが考え方によっては死んでしまった方がこれからは老ける事も無く、苦しむ事も無くイメージも今のままでそのままでいられる。
生きてゆかなければいけない我々残された者の方がこれからもイヤが上にも生存競争に耐えて行かなければ行けない。

無論楽しい時も有るがあの世と言うところもキット楽しい時が一杯あるところかもしれない。
こんなことを考えながら送られてきた小包を開く、箱の中には日本食品がいっぱい詰まっており親友の奥さんが気を使って入れたと思う。ありがたく頂くことにして親友の灰を探す。

これかな?と思うほど小さいビンに綺麗な白い灰が入っていた。京七味のビンの横に恥ずかしがって隠れているような姿で見つけることが出来た。チョッと間違えると 「うどん」 にかけてしまいそうなぐらい京七味の代わりに何か?新しい薬味じゃ~ないか?と疑うような姿ダッタ。

その灰を促成の仏壇に祀り線香を焚き、生前一緒によく酒を飲んだ時のように酒の代わりワインを供え拝んでから 「やっと又会えたね」 と昔を回想する。
「今度天気の良い日に海に行きお前の灰を海に撒いてやるからね」 と話しかける。

もう一つ思いがけないものが箱に入っていた。それは昔外国旅行をしていた頃、我々が親友に送った写真がアルバムに張ってあったと奥さんが送ってくれたのだ。
私も女房も若く、「一緒に写っている若い男は誰だ?」 とやきもちを焼くほど横の男が誰だかわからなかった。
女房も 「横に写っている若い女は誰だ、あんた白状しなさい」 と言いたいほどお互いに若い頃の写真であった。

俺たちにもこんな若い頃があったのだ。貧乏旅行をしている頃その日の食べ物も無いほど金銭的に苦しかったのに、
「見てみろ」 こんなに俺たちは若く、生き生きとしており、明るく希望に溢れた顔をしているではないか。

この若さは金では買えない素晴らしいものだ。不自由の無い生活をしている今かえって不服の多い生活になっているのではないか?

あらゆる物を欲しがりそれを買い求めるがゆえに苦しみ働き病気になるような生活をしているのではないか?
何も無かった若い頃の写真を眺め、もう一度我々の生活を考えなおさなければいけないとこの写真は俺たちに語っている。

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